京都の大学院生

とあるしがない大学院生の戯れ言。映画のことを中心に、たまに日常で感じたことを書き留めていく。

デスノートとボクノートの名前が似ている件について

今僕の中にある言葉の欠片 喉の奥鋭く尖って突き刺さる
綺麗じゃなくたって少しずつだって良いんだ この思いをただ形にするんだ

スキマスイッチボクノートは、小学生の音楽の授業で歌う機会があった。今考えると随分ルーズな小学校である。兄貴のいた別の小学校では、とても考えられないことで、お硬い曲でなければ歌うことは許されなかったというのだ。しかし、私はそれらの恩恵を特に肌で感じることはなく、定期的にやってくるこの音楽の授業をただやり過ごしたい気持ちで対応していたように思う。ところがそこは不思議なもので、今も軽く口ずさめるくらいであるのだから、少年時代の記憶とは偉大なものだ。
 ボクノート、私ははじめにこの歌詞をみたとき、当時流行っていたデスノートの主題歌なのだと思った。名前が似ていたし、まず曲調がとても切ないのである。私はデスノートという漫画の設定だけは何となく、名前を書いたら名前の人物が死んでしまうのだと、その程度にはどこかで聞き齧っていた。恐らく、デスノートの主人公は「考えて書いてつまずいて消したら元通り。十二時間経って並べたものは紙クズだった」の言葉通り、デスノートに人の名前を書くことに良心の呵責を感じ、幾つもの書き損じた紙片を並べ立て、「今僕の中にある言葉の欠片 喉の奥鋭く尖って突き刺さる」は殺してしまったことへの罪悪感に苦しんでいる最中なのだろう、と私は1人早合点していた。デスノート、それは1人の思春期の少年の「積もり積もる感情が膨れてゆき」そして家族にも誰にも「吐き出すことも出来ずに」苦しむ贖罪の物語なのだ。そしてそれは「綺麗じゃなくたって」いい。「少しずつだって」良いのだ。私は切なさで胸が締め付けられるようだった。スキマスイッチの儚いメロディがそれを煽り立てるのである。
 ところがである。実際のデスノートはそれほど良心的なものではないのであった。夜神月は最後まで悪を貫いていたし、しかもとても醜く幕を閉じていたのだ。さらにボクノートドラえもんの主題歌だったのである。私の早合点は完全に妄想だったのだ。
ふと振り返ると、なんと馬鹿げたエピソードだろう。しかし、実際に私が音楽の授業で合唱台の冷たさを靴下で踏みしめながら感じた、想像上のデスノートの切なさは果たして幻想だったのだろうか。私はもしかしたらこちらのほうが本物のデスノートより面白いのではないかと思っている。今も密かに思っている。